いのちのしまいかた「在宅看取り」一年の記録
延命より、充実した最期の日々を。
国民の半数以上が「住み慣れた家で逝きたい」と望んでいる。それを実践した人びとは、どのように最期を迎えたのか──。2人の訪問診療医が向き合った患者たちの最期の日々。大反響を呼んだNHK BS1スペシャル『在宅死“死に際の医療”200日の記録』(2018年6月放送)のディレクターが綴る、「葛藤」と「納得」の死を見つめた渾身のノンフィクション。
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40代男性 この本には、在宅医療に一生懸命な医師がでてきますが、残念ながらそのように一生懸命に在宅診療に取り組む医師がそれほどたくさんいるわけではありません。
もしかしたら、住み慣れた我が家で最期を迎えるということは、理想としてはよくても 現実的にはとても難しい、贅沢なことなのではないかと感じます。
在宅で看取るということが本当に幸せなのかどうかは、その人や家族の価値観次第です。
本当に大切にされて、家族に見守られながら看取ることができればそれは幸せでしょうが、認知症や病気から家族に厄介者にされてしまう高齢者もたくさんいます。
看取るという瞬間は、その人のこれまでの人生が集約される瞬間だと、私はこの本から学びました。
新潟県で介護業界に長く籍を置く私は、実は現場の介護職員ではないために「亡くなる」ことがどういうことかを身近で目の当たりにすることはかなり少ないのです。
それでも最近の介護施設では看取りを求められてくる場面が多くなってきたため、数回ほどは看取りの場面に立ち会う機会に遭遇したことがあります。
看取りの場面に立ち会う回数が少なかった最大の理由は、私自身が「亡くなる瞬間は医療の範疇だ」と考えてきたからです。
そんな私でもこの本を通じて 在宅のみならず施設や病院でも 「人が亡くなる」ことがどういうことか、死の瞬間はどのようなものか…を改めて考えさせられました。
この本の医師の説明は、私のような介護現場の素人にも とても響くものでした。
最期まで在宅で過ごしたいと考えている方には一読をおすすめします。

海が見える家
ワケあって、田舎暮らし、はじまる。
苦戦した就活でどうにか潜り込んだ先はブラック企業。働き始めて一ヶ月で辞職した。しかし、再就職のアテもなければ蓄えもない。そんな矢先、疎遠にしていた父親の訃報が飛び込んできた。孤独死したのか。どんな生活を送っていたのか。仕事はしていたのか。友人はいたのか。父について何も知らないことに愕然としながらも、文哉は南房総にある父の終の棲家で、遺品整理を進めていく。
はじめての海辺の町での暮らし、東京とは違った時間の流れを生きるうちに、文哉の価値観に変化が訪れる。そして文哉は、積極的に父の足跡をたどりはじめた。「あなたにとって、幸せとは何ですか?」と穏やかに問いかけてくる、著者新境地の感動作!
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40代男性 千葉県は南房総、館山が舞台。この本の面白いところはその舞台が父親の残した家であり、その父親本人がすでに亡くなっている設定で始まることです。
父親とあまり大人になってから交流のなかった主人公は、父親が亡くなる間際の数年間連絡を取らないでいました。
亡くなって残された家に住むことで数年間連絡を取っていなかった父親の生前最後の姿が見えてきます。
その亡くなる直前に父が何を残したかったのか、そして何を楽しみにしていたのか、なぜそのに住んでいたのか、その内容がリアリティあふれていていてとても共感できる部分でありました。
主人公本人には幼いころ見せなかった、本当の父の姿。子供のには見せられなかった恥ずかしい部分。そんなところが、人間味があふれていて、とても共感が持てました。
父親は大金を残してくれたわけではなく、唯一、丘の上に立つ海の見える家を残してくれただけでした。
その残された家に住む間に主人公は、会社を辞め無職である自分と見つめ合う時間を持ちます。
その中で主人公も知らない、父が若年時代から続けてたサーフィンに出合います。
父がサーフィンをしていた過去すら知らない自分の情けなさ。そして父がこの土地に住んでどのように収入を得ていたのかを、亡くなった父親の口から聞くのではなく、その土地に住むことによって知り、自分が何もしたなかったことに落胆します。
死んでから父の残した思いを受け取り、徐々に自分と照らし合わせ、自分を成長させていき、いろいろな技術と情報を得てゆきます。
徐々に娯楽や仕事に対して力強くなっていく主人公の成長がとても爽快感がありました。
実際私も父を亡くしています。父を亡くすと誰しも感じることなのかもしれませんが、自分が知っているつもりであった父の姿は『すべて』ではなく、ほんの一部であった。そう感じます。
亡くなってから出てくる遺品の数々を目にしているうちに、父が残したメッセージのようなものを感じます。
この本と照らし合わせつつ感じることは、亡くなる人が残したい『想い』はきっと本人ですら、残される人に伝えきることができず、亡くなっていくのではないか。ということです。
そしてジリジリと亡くなってから伝わってゆくこともたくさんあるのです。
私も父が残した『想い』のように、自分が亡くなっても伝わる何かを、生きているうちに残したい。そう思います。
ミステリーのように亡くなった後、『え!この人はこんな一面があったの?!』というような亡くなり方をしたいと思いました。
終活スペシャリストになろう
最後まで自分らしくより良く生きるための日々の活動である終活に、今、注目が集まっています。
終活で行うべきことは多岐にわたり、一人ひとり異なります。老後に起こるさまざまな問題に対して、自力でもれなく準備をするのは難しく、トラブルも起こりがちです。そこで、終活のお手伝いをする「終活スペシャリスト」の需要が高まっています。終活スペシャリストは、自分の収入源になるだけでなく、地域で支え合う仲間をつくり、人に頼られることで生きがいをもてる仕事です。
本書では、終活スペシャリストという仕事の魅力、資格の取り方、活動の仕方を終活スペシャリストとして活躍している方々の声を交えて紹介しています。
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30代女性 終活なんてまだまだ先の事だと気長に考えていましたが、自分が認知症になったり意思をあらわせなくなってからでは遅いと言うことに気づかされました。
いざ自分が年老いてからでは遅い。「終活」とは人生の最期を迎えるための準備や活動のことだと改めて学びました。自分が頭も身体も元気なうちからこの活動をはじめよう!と思うことができ良かったです。
また、私や主人の両親にも、以前ほんの少しエンディングノートの話をしましたが、その時には「縁起でもないからそういう話はするな」と窘められた事があったので、今回この著書から学んだことを参考に上手に伝えられたらいいなぁと思いました。
また「終活」と一言に言っても何を具体的にすればいいのか今いちピンとこなかったのですが、本書にて医療・介護・保険・相続・葬儀・お墓の6つのジャンルを押さえて置くことが書いてありました。
何となくはわかるけれど実際その時が来たら確実にどうしたらいいのかオロオロするばかりの項目でした。もちろん自分が亡くなる立場ならオロオロしませんが家族が困ることになるでしょうね。
私自身、葬儀なんてそんなにお金もかけて欲しくないと思っていますしお墓も仏壇もいらないと心で思っていますが、子供たちとそんな話をしたこともありません。
医療や介護の事もそうですが、「自分がどうしたいか」はきちんと家族のためにも伝えておく必要があると学びました。
本書を読んで早速エンディングノートを少しずつ書き始めたのですが、書いていると自分でも気づかなかった発見があったりして、改めて自分を見つめなおす良い機会を得られたと思っています。
また書くことに満足するのではなく、家族でこういった事を話す機会をもち共有することが大切だと感じました。
更にこの知識をいかしてスペシャリストにはなれないかもしれませんが両親や周りの高齢者の方々からの相談に少しでものってあげることができ不安を解消してあげることができたらと思います。
秋の四重奏 (Lettres)
ロンドン、全員ひとり暮らしの男女が四人。共に、同じ会社に勤め、定年間近の年齢である。まず女性二人が退職する。そのうち、マーシャがやがて亡くなり、レティは老後の生活になんとか順応しようと努める。男たち、エドウィンとノーマンはまだ勤めているが、まもなく会社を去ることになるだろう。
こうした四人の平凡な日常風景——職場のやりとりや昼食、互いのささやかな思いやりやすれ違い、ヴァカンスやクリスマスの計画、遺産相続などが淡々と描かれるだけで、何であれ、劇的な事件には発展しない。マーシャの死さえも日常生活の中の一齣にすぎない。これら凡庸な四人のありふれた 〈老い〉 が、この味わい深い上質のユーモアに満ちた 〈コメディ〉 の核心をなしている。
われわれはここで、静かに奏でられた、ふつうの現代人の、孤独な〈生と死〉 の意味あるいは無意味に向き合うことになる。温厚かつ辛辣な作風によって、〈現代のオースティン〉 という声価を得た英国作家の代表作。
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30代女性 定年を間近に控えた独身(離婚含む)男女四人の淡々とした生活を、リアルに描いた作品です。
同じ会社の同じ部署で働く四人、彼らが定年したらその部署はなくなる予定のようで、新人が入るわけでもなく、1人ずつ静かに退職していきます。
彼らの生活には大きな出来事が起こりませんが、それぞれ色んなことを考えて生活しています。
アパートの大家が異教徒で困惑したり、義理の弟を見舞いに行ってその弟のことが苦手な様子などが細かく書かれていたりします。
先に退職した人のことを残された人たちがからかうような、憐れむような、もしかしたら蔑んでいるような会話もありますが、彼らが不幸かといったら全くそうではないなと思いました。
自分が年を取って、死に直面するまでに色んなことをちゃんと出来るかしら…
彼らの1人が仕事を辞めてから服装など身だしなみに気を使わなくなり、だんだん世間の感覚からずれてボケてしまったような描写には自分の身にも起こりうることだなと気持ちが改まりました。
自分が高齢になった時に考え方に偏りが出たり、思うように動けなくなったりすることもあると意識できて良かったです。
翻訳の文体もよく、作者が女性だからか 特に女性の人物が生き生きと描かれていて、普通と言えば普通、個性的と言えば個性的な高齢者と言われる直前?のイギリス人女性が目に浮かぶようでした。
待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)の生涯 椒庭秘抄
白河法皇という絶対権力者に愛され、この男を愛した女。この男ほど、我欲のために強権をほしいままにした男はいないだろう。かの豊臣秀吉でさえ霞んで見える。欲望を制する術も必要もなく、心を傾けた何事にも狂気的に執着したこの男に、全身全霊をもって愛され、娘として愛人として弟子として一身にその想いを受けた女は、その唯一無二の神を喪った人生をどう生きるのか。男女関係におおらかな時代にありながら、人々に不倫とその存在を形容せしめた女は、果たして、稀代の悪女であったのか。
権力欲、色欲、物欲を日々充たし、我が世の安寧のためだけに巨万の富を寺社建立や密教修法などに使った、白河法皇の性質を色濃く受け継いだ女。しかし神を喪い、夫である鳥羽上皇も、やがて若い女にのめり込んでいくなかで、白河法皇のように燦然と輝くことは「女」であるがゆえにもはや不可能であった。
本書は、当時の貴族の日記など数々の史料に散見される記述をもとに、あるいはその行間から、彼女の生きざまを浮き彫りにしていく。現代の道徳観念とはまったく異なる時代の人々を考察することの困難さはいかばかりであったのか。侍賢門院が、筆者にとって見果てぬ夢の女だったから、成し得たことなのかもしれない。男女の性差から、推測に異を唱えたくなるくだりがないとは言わないが、深い内容であることに間違いはない。何十年も前の作ながら、鮮やかに咲き誇る名著である。
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40代女性 藤原璋子(女院号は待賢門院)は、源平騒乱の時代の「運命の女」人によっては「平安時代を終わらせてしまった元凶」とも言われる存在です。
この本は実は小説でもなく哲学者でもなく、平安時代の歴史の学術書であり、作者は平安時代の歴史学の大家です。内容は待賢門院の生い立ちから死後までを丹念に考察したものでまさに大著。
幼くして父を亡くすものの時の最高権力者、白河院の元で養女となり溺愛されて成長し、やがて白河院の孫の、鳥羽天皇の中宮となって多くの子を産み、なかでも崇徳、後白河の二人の天皇の母となります。
しかし彼女は幸せだったといえるのか?私の世代では優しく真面目な人と家庭を持ち、子供に恵まれればそれで幸せだったと言えます。
時空の異なる遠い存在の待賢門院ですが、リアルになるのはここからです。待賢門院は養父の白河院と10代前半から肉体関係にありました。まずここは現代なら性的虐待です。しかもこれは当時の都中の周知の事実だったのです。
結局外聞を気にした白河院は孫の鳥羽天皇に入内させます。鳥羽天皇は美貌で名高い待賢門院をかなり深く愛していた様ですが、白河院との関係はその後も長く続きました。
崇徳天皇は白河院の子であると言われます。(我が子ということにされているが、年下の叔父…)という鳥羽天皇の苦悩が源平騒乱の根になるのです。
そんな華麗な待賢門院の最期は、孤独と病に苦しみながらひっそりと幕を下ろしました。
その美貌ははるか年下の西行法師も憧れたとされています。待賢門院の死を悼んだ和歌が、墓前に手向けられた花のように印象的です。
一見別次元の世界ですが、人間の苦悩や死は 今も昔もさほど変わらないと思いました。